第1節:転職門前払いとハローワークからのオファー

「前の会社を辞めた理由は何ですか?」

向かって一番右の、50代くらいで小太りの面接官が、あなたに問いかける。
答えるために息を吸い込んだ瞬間

「自分を一言で売り込んでみてください」

その隣にいる、痩せ型で30代くらいの面接官が、銀縁の眼鏡越しにあなたをジロリとうかがう。

一度に二人からの質問を受けたあなたは戸惑う。

その横からはさらに

「1年ほど職歴が無い期間があるようですが、その間は何を・・?」

またその隣からは

「先ほど言われた『自分の志向と合わない点』というのが、当社でも起きてしまった場合、その点をどうクリアできますか?」

準備してきた応対がまるで通用しないことにあなた混乱し、言葉が出ない。
沈黙が続けば続くほど、形勢は不利になると知りつつ、あなたの思考は停止した。

全身全霊で臨んだ念願の面接が、【負け試合】または【消化試合】の宣言をされた気がする。

(おかしい。何か変だ)

あなたはおもむろにイスから立ち上がり、脱出を図る。
が、振り向くとなぜか目の前には、胸の高さのバリケードが張られている。

急に体が重くなり、足が持ち上がらない。
あなたは両手をついて這うように進んだ。

後ろから、面接官たちの声が追ってくる。
どうも人数が増えているようだ。

もはやあなたは振り返りもせず、やみくもに脱出を図った。

バリケードのてっぺんに両手をついて体重をかけ、一気に飛び越えるため思い切りジャンプした。

しかし、地を蹴ったはずの足は空を切り、両手は何の手ごたえもないまま、勢いよく引き下げられた。

あなたの意識はそこで覚醒した。

今の手足の動きはどうやら現実に行われたらしく、両手で勢いよく掛け布団をはいでしまったことに驚きながら、
あなたはこの悪夢に終止符を打った。

狭い一人暮らしのアパートだ。

薄汚れた壁に、雑然と並べただけのカラーボックス。
あとはパイプハンガーと、パソコンが置かれたテーブルがあるだけの殺風景な室内のシルエットが、
薄い光の中にぼんやりと浮かんでいる。

起き上がって窓際へ行き、くたびれて色あせたカーテンをまくると、
土ぼこりで汚れたガラス越しに、薄曇りの朝の光景が広がる。

今しがた見た夢と現実に大差がない、いつものあなたの一日を思わせる光景だ。

職探しが困難な現実を、あなたはこの1年ほど、身をもって体験中だ。

ある事情で、前の退職せざるを得なかった。
求めて辞めたわけではないが、形式上は『自己都合による退職』だ。

次の職場を決めてから退職する ⇒ 失業給付開始までには再就職する
⇒ 失業給付を受けている間に、是が非でも就職しなければ
⇒ 給付終了。蓄えが尽きる前に一刻も早く就職しないと
⇒ 現在に至る。

あなたはずっと事務職だった。
わりあい器用で、ずいぶん幅広く活躍してきた、と思う。

転職回数が多かったからこそ、それが実感できる。
総務、経理、人事、営業事務、企画etc.

就職支援のカウンセリングでも、『その順応性の高さは長所になるから、そこをアピールポイントに』というアドバイスを何度も受けてきた。

が、それは違っていた。

同じ職種で、ライバルたちと経験年数が同等なときこそ、順応性の高さは有利さを発揮するが、あなたが応募する求人では、ライバルたちも相応に年を重ねていて、経験量の段階でまったく歯が立たない。

十年戦士の応募書類は、やはり圧倒的な説得力を持つのだ。

あなたのような職歴では、どんなに工夫して書類を作っても、人事担当者は斜め読みして弾いてしまうだろう。

それに、もう若くない。これはかなり致命的だ。
直属の上司どころか、社長より年上というケースだってあり得る。

『年齢的に気を遣って、何かと使いにくい部下』
そのハンデをカバーするには、相応の実力が要る。

その分野のエキスパートであることを自動的に表現してくれる『十年戦士』。
あなたはその称号を持っていない。

いや、同じところに十年以上勤めたことはある。しかし、官庁なのだ。
10年以上官庁にいたことが、『民間では通用しない理由』として、面と向かって言われたことも、一度や二度ではない。

公務員時代にはバリバリやっていて、それなりに自信を持っているあなただったが、それは早々に封印しなければならなくなった。

だからといって、民間経験に絞ったアピールもまた、大きなマイナス要因をはらんでいる。
生活のための就職ばかりで、職歴に統一性がないからだ。

数百社へのエントリーで、面接まで進めたのは、たったの6社。
その希少なチャンスにかけた願いも、あえなく散った。
面接の悪夢を見てしまうのも仕方あるまい。

就職活動にすべての気力、体力、資力をつぎ込む毎日。
少ない貯蓄が余命のように感じられ、恐怖が増大する。
そろそろ、職種がどうのという問題でなく、またも『間に合わせのバイト』を探さねばならない。

(まずはハローワーク)

簡単な朝食を済ませた後は、日課となっている【ハローワーク詣で】だ。
あなたは澱んだ空気の充満するアパートの部屋を出た。

ハローワークに到着したあなたは、受付機から待合の札を取り、
パイプ椅子に腰かけて、自分の番号が表示されるのを待つ。

昨日ここでは、求人案件を数件、検索用PCからプリントアウトしていて、そのうちの3件へ応募する。

ちなみにこのあとは、やはり昨日「しごとセンター」でピックアップした求人4件に応募するために、
50分ほど自転車をこいで都心へ向かう予定だ。
電車賃の負担は、大げさでなく家計を圧迫するので、そんな移動手段を余儀なくされている。

平日朝一番のハローワークは、それほど込み合っていない。
だが、一時間以内にフロア内の光景がどう変わるかを、あなたは詳しく知っている。

求人検索用PCが並んだ一帯では、表情を失くした利用者たちが機械の前にびっしりと張り付き、一言も発さずに操作する。

失業給付受付窓口の前には、総合受付に達するほどの、長蛇の列ができる。

手当の口座振込申請をした利用者は、イスの数をはるかに上回り、
所在なさげにカウンター前のあちこちのスペースにたむろしている。

今あなたがいる就労相談窓口も、あっと言う間に数十人待ちになるはずだが、今日はハローワークへの到着が早かったので、
あなたの受付番号札の数字は一ケタだ。
電光掲示の番号表示は、次があなたであることを示している。

・・・

しばらくの間、3社の募集要項を丹念に見直していたあなたは、ずいぶん待たされていることにようやく気付いた。

電光掲示の番号は、もはや20番台だ。

(呼ばれたことに気づかなかったらしい)
総合受付へ戻ってそのことを告げ、奥の部屋へ入った係員が再び出てくるのを随分待った後、
別室の場所を示され、そこへ行くように言われた。

(特別な紹介案件でも用意してもらっているのか?)

毎日訪れた記録は当然残っているだろう。それが高評価を呼んだのかもしれない。
あなたはドキドキしながら略図のとおりに歩き、指定の部屋へ向かった。

(ここだろうか?)

ドアプレートの室名を見て、あなたは不審に思った。

『起業支援相談室』

ドアにはポスターが貼られている。

「起業セミナー開催のお知らせ」
「融資・助成相談会。○年 ×月の日程」
「中小企業振興公社窓口移転について」など

あなたに起業願望はなく、当然、ハローワークにもそんなことを言った覚えはない。

適当な場所がないから、たまたまこの部屋を使うのだろうと考えながら、ドアをノックして開けた。

部屋の中は、長テーブルを二つくっつけて会議机代わりにしたシンプルなレイアウトだ。
6人も入れば息が詰まりそうな狭い部屋で、テーブル越しにあなたを待っていたのは、20代半ば頃とみられる若い女性だった。

中肉中背、締まりのあるムダの無いスタイルを紺色のスーツで包んでいる。
肩までの黒髪が服と相まって色白の肌を一層引き立てている。

テーブルに隠れて全身は見えないが、張りのある立ち姿勢には、
女性らしい自然なしなやかさが加わっている。

かすかな笑みを浮かべてあなたを迎え、おずおずと入室したあなたへ、ドアを閉めるよう促した。

どうやら相手は彼女一人らしい。
何の話か想像してみたが、この部屋が起業支援相談室であることからの連想で、
(フランチャイズ加盟の勧誘ではないか?)という疑念が湧いてきた。

口当たりのいい説明で加盟金を集めるフランチャイズ本部もたくさんあるときいていることもあり、
あなたは、某大手転職サイトから届く『フランチャイズ加盟』のオファーを胡散臭く思っている。

就職活動に困っている弱者をターゲットにした販促だと、つい悪意的に考えてしまうのだ。

「こんな道もある」というチャンスを与えていると、企業側はいうのかもしれないが、
追い詰められた精神状態からフランチャイズ起業に鞍替えして、うまくいくとは思えない。

加盟オーナーを募るなら、通常の広告で十分じゃないか。

オファーなど滅多に来ないあなたは、通知を受けると特別に気持ちが湧き立つ。
いそいそとサイトにログオンしてメッセージをチェックし

≪フランチャイズ加盟≫
という文字をみると、急速に心が冷える。

“小金だけはあるんだろ?”

という意味のメッセージに思えて、期待した分だけ余計に傷つく。
無職、貧乏の二つの泣き所を同時に突かれることになるからだ。

まあ、求人サイトは営利企業だから、広告掲載料でも成功報酬でも、
様々なビジネスチャンス獲得を試みるだろう。

しかし、ハローワークまでがそんなことをするか?

(若い女が相手だからと、心を許したりはせず、甘い話には絶対に乗らない)

勧誘なら即座に断って、ついでに、時間を無駄に奪われたことに抗議でもしてやるか。弱者を食い物にするなと・・。

「どうぞおかけください」
思ったより抑えめなトーンの声に、あなたは失礼しますと応じて椅子を引きながら、頭の中では断る理由を数パターン考えていた。

・加盟金を払えないこと
・協力者のあてがないこと]
・【先輩加盟者の声】などの情報はマユツバであること
・本部の販路扱いにされ、指導とは名ばかりの圧力が想定されること
・その圧力に「アドバイス料」という名のフィーが発生しそうなこと
・解約ペナルティーを払えないこと

まあ、こんなところだろうか。

「こんなところにお呼びして申し訳ありません。
私は起業支援の【法人】受付部門を担当しております××と申します。よろしくお願いします」

この女性はアシスタントだと思っていたが、そうではないらしい。
あなたはあいまいに応じながら、改めて女性の顔を確かめるように見てみる。

落ち着いた事務的な雰囲気だ。
頭の中に詰め込んである無機質なフレーズ(フランチャイズの募集要項)を
一方的にまくし立てるようには見えない。

が、それでも一応、
「このくらいの収入が見込めます」
「何月何日に説明会を開催しますので、詳しいことはそちらで訊けます」
「○○公社では、有利な条件で加盟金の融資を行っています」

などという説明がいつ開始されるか、あなたは警戒しながら彼女の様子をうかがっていた。

しかし、担当官が話し始めたのは、あなたの想定外の事柄だった。

「今年の3月にハローワークで実施した、『応募書類作成セミナー』に参加されましたよね?」

そういえば数ヶ月前、2日間にわたってそんなセミナーを受けた。

「履歴書」、「職務経歴書」、「応募書類送付状」
などを、必死に作りこんで持って行ったことを思い出す。

たしかにセミナーはあなたの応募書類を充実させる役には立った。
だが、あなたの就活をサポートするものとは言い難く、
だからこそ、今もこうしているわけだ。

「その後いかがですか? 今、ご希望に合う求人はありますか?」
担当官はそう訊ねてきた。

はっきり言って、今のあなたの心境は
“自分の希望に合うかより、『企業の希望に合う自分か』と考える毎日” だ。

買い手市場の弱者代表というほど、あなたは自信を失っている。
そんな弱気な答えに対し、担当官はあなたの顔をじっと見て、ゆっくりとうなずいた。

・・・

少し空いた間に違和感をおぼえながら、あなたは次の言葉を待った。

「本日こちらへお越しいただいたのは、私どもからの要請を、受けて頂くご意思があるかどうかを
確認させていただきたかったからです」

(ついに来たか)

あなたは内心で身構えた。
ここからが本番(フランチャイズの加盟提案)だ。

しかし、担当官が口にしたのは、またも予想と違った事柄だった。

「『応募書類作成セミナー』で、書類の添削を希望されましたよね?」

(どういうことか)
あなたはさらに様子を見た。

職歴から見ると、こういったことにご興味をお持ちと思われますが・・
みたいな導入トークから、学習塾の経営とか、マッサージ店開設とか
そんな話が始まると思っていたのだ。

確かに、担当官が言うように、あなたはセミナーで書類添削を希望した。
そもそも、それこそが、あなたが強く求めていたものだったからだ。

なかなかその機会はないものだ。

超有名な転職サイトで見つけた【添削サービス】に申し込んだら、
『今、ご紹介できる適当な求人案件がありません』という無造作なメールが返ってきたことがある。
添削サービス希望の話がすり替えられていることに、あなたは腹を立てた。

結局、登録者を増やすためだけのエサで、
転職サイトの応募書類添削はアテにならないと認識した。

また、ハローワークの窓口担当者に応募書類を見せ、アドバイスを求めたこともある。
しかし、担当者の当たりはずれも多く、無駄足になることも多かった。
窓口にいるから書類作りのセンスがある、という保証はないから当然ともいえるだろう。

そして、「しごとセンター」では、担当アドバイザーとよほど相性が悪いのか、
会話が噛み合わず、対面中ずっと圧迫され続けて、会うこと自体が苦痛だった。
何度もカウンセリングを勧められたが、一度も応じたことがない。

そんな中、思いがけず目についたこのサービス。
どうしても受けたくなった。

『セミナー開催前の1か月間に、ハローワーク求人に30社以上応募していること』が条件だ。
あなたは問題なく、それに該当していた。
我ながら(ぶざまだ)と思いつつも、これを受けないという選択肢はなかった。

そして、2日間のセミナーでさらに作りこんだ書類を、祈るような気持ちで講師に渡したのだった。

第2節:就活禁止? 低賃金コンサルタントへのいざない

担当官はあなたに問いかける。
「長所面と短所面、どちらのエピソードにも、 頻繁に出てくる事柄がありましたね。
覚えていらっしゃいますか?」

(データベースのことだろうか)

たしか社会人3年目の人事異動で、22歳のあなたは前任者から膨大な作業を引き継いだ。

当然ながら、下っ端のあなたには、作業を分担させられるような部下がいない。
部下の代わりにできるのはパソコンだけだ。

そのときに、パソコンを、作業をさせる『人』代わりと考えず、
機器の中に、一定の機能を持つ『組織』を構築しようとした点が、
その後のあなたの人生を変えたといっても過言ではない。

その目的のためにデータベースソフトを使い、パソコンの腕前は上がったが、
プログラマーなどの技術系は目指すことなく、データベースでの組織作りに強い関心を持った。

つまり、『システム化』だ。
技術系ではないため、『システム化』の対象は常に具体的だ。
人や物に働きかけ、自分も混ざり、作業工程や情報伝達方法などの決まり事を変更して
実務面から合理化するのを補完するのがパソコン(主としてデータベース)だった。

これをいくつもの職場で実践してみて思ったのは、官庁も民間も関係ないということだった。

(部署をまたがる実務の横断)だとか(実務とシステムの新たな関連付け)など、
経営陣が頭を悩ます問題は、データベースを触媒に使うと、意外なほど容易に実現できる。
サーバーの中には、宝物が埋まっている。

しかし、なぜか誰もがこの領域には手を付けない。
だから、企画も実行もあなたの独壇場だった。

こういったことを『応募書類作成セミナー』で書いてみたのだ。

「私どもでは、この点にとても関心を持ちました」
担当官の言葉にあなたは引き込まれた。

こんなことを言われたのは初めてだったからだ。

なぜなら、あなたが積極的にしてきた活動は、他社に理解されづらい。
ライバルと競うエピソードがないからだ。

勝ち取った実績の表現として
『それまでかかっていた日数を短縮した』
などという表現は、職歴書では誰でも使うフレーズにすぎない。

『他部署との連携を推進し、円滑な進行を可能にした』
なんていうのは、抽象的過ぎて説得力がない。

応募書類でこのスキルを一言で表現する適当な名称がないことが、
あなたの自己アピールを難しくしてきた。

彼女はさらにこんなことを言う。
「経営者の中には、ITで自社事業の強みを増すために、
ITエンジニアとの自在なコミュニケーションを取りたがる人がたくさんいます」

(それは良くわかる)

あなたは、かつて自分が勤めた人材会社の社長を思い出す。
たしかにそんなことを言っていたなと。

「ご存じかもしれませんが、残念なことに、経営者と会社の事業そのものを語りあって、
社長さんを満足させられるエンジニアは多くないのです」

(それもそうだろうな)

あなたは実感と共にうなずく。
社長が、朝礼でボヤくように言っていた。

『連中は宇宙語で話すから、会話にならない』 と。
『そして、こっちの言うことを理解できないから、訊いてることに回答してこない』
『結局とんちんかんな事をやり始めて、全部やり直しになる』

役に立たないと言いたいのだろうが、そんな不満を何度も口にするところを見ると、
社長がITエンジニアにかけている期待の大きさがわかる。

一方で、あなたは、何人ものエンジニアと接してきた経験から、彼らにも同情できる。

高度なシミュレーションのトレースから単純な集計に至るまで、
システムというやつは “ それを人間がやっていたら効率が悪いこと ” を自動化する仕組みのことだ。

内容により難易度は違っても、とにかく一定の繰り返し作業を機械にさせる仕組づくりの専門家がITエンジニアだ。

(自動化による自社事業の将来構想)
みたいなことを夢想しているようでは、目の前の仕事がはかどらない。

そういった『設計図』を作るのは彼らの仕事ではない。
あくまでも『設計図』に基づいて完成品を作る役割なのだ。

「あの連中は、ビジネスってものがわからないんだ」
と揶揄されることが多いエンジニアだが、それはユーザー側から見た姿であって、
エンジニアもプロとして、自分のビジネスを行っている…

と、あなたは考えている。

本来、「戦術(繰り返し作業)」の充実を期待され、融通の利かないコンピュータ相手に奮闘するITエンジニアにとって
経営者的発想は、大概の場合、鬼門になる。

つまり、
会社全体の効果的な業績の伸ばし方 (言い換えれば「戦略」)みたいな『漠然とした話』は、
そもそも非日常の不得手分野なのだ。

だからこそ、
『経営者と会社の事業そのものを語りあって、社長さんを満足させなければならないエンジニア』
という現実が生まれるのだとあなたは思う。

経営者の関心が、エンジニアという一個人の技能に集中するのではなく、
『社内の情報資源の活用』というテーマで発想することにより、大きなリターンが得られるとあなたは考えている。

偶然だがあなたは、『IT資産を活かした部署の機能強化』に関心を持ち
ITエンジニアとシステムユーザーたちによる、工夫・人の和・機械力のコラボを社内で画策してきた。

「工夫」はユーザー、「機械力」はエンジニアが担当し、「人の和」に必要な両者の歩み寄りには、あなたが介入する。

————————————————————-
「そこはシステムがからむから、システム室じゃないとわからん」
×
「いや、そこは作業現場で決めてもらわないと」
————————————————————-
という押し付け合いを防ぐだけで、データベースは莫大な価値を生む。

もし経営者がそこに目をつけたら、繰り返し作業である『戦術』のレベルが大幅に上がるだけでなく、
『戦略』の領域にも大きな変革をもたらすことを、あなたは強く予感している。

そして、この物事の見方は、あなたが勤めた職場にもそれなりの価値をもたらしてきたと思うので、
就活の際にアピールできる「特技」と考えてきたが、セミナーで自分を掘り下げたことをきっかけに、それは逆転しつつある。

表現の手段がなく、誤解を生み、むしろマイナスになる危険性がある特技なら
いっそ無いことにしてしまったほうが有利ではないか?

長年執着してきたあなたの最大のアピールポイントを、思い切って手放そうとしていた矢先だっただけに、
担当官の言葉はあなたに突き刺さった。

でももし、
『是非その経験を活かして、フランチャイズ経営を』とか、
『水と油の両者を理解する能力のある方なら、きっとうまくいきます』
とか言われたら、幻滅もいいところだ。

あるいは、『技術職への転換の打診』ということも有り得る。

[今後、ITエンジニアの求人で適当なものがあった場合、ハローワークから連絡します] といったふうな。
むしろ、その可能性が高い気がする。

就職に焦り、先行きの見通しが立たない今、そんなシフトチェンジも有りかもしれない。

とはいっても結局、応募の範囲が広がるにすぎないので、その後はいつも通りの苦戦になるだろう。

それでも一応、ハローワークの「○○支援」といった扱いで、採用した企業側には補助金が出るとか、
気休め程度の効果はあるはずだ。

(だが・・)

この年齢から、ITエンジニアなんて務まるか?
頭の柔軟さの衰えをはじめ、老眼や四十肩、節々の痛みなど、体のあちこちに陰りが生じる年齢に突入してゆくのだ。
プログラマーやシステムエンジニアに、初挑戦するのはさすがに無理ではないか?

◇ このままアルバイトに毛が生えた程度の収入でジリ貧となるか
(細く長く追いつめられるか)

△ 思い切って職種転換して無理して体を壊しジリ貧となるか
(太く短く追いつめられるか)

そんな悲観的な2択をせざるを得ないかもしれない。

しかし、心のどこかから別の声がして、あなたに方向転換を告げた。

(エンジニアへの転換でもいい)
今度はそっち側から、あなたなりのデータベース技術にトライしてみよう。
そう思って、担当官の顔を、決意のこもった眼差しでじっと見た。

「実は今、私どもハローワーク【法人】部門からの依頼を受けて活動してくださる方に欠員ができて、
新たな人材を探しているのです」

意外だ。就職支援ではないということか?
話の流れからすると、就職支援事業に関するデータマイニング的なものか。

だが、それならもっと適役がいるはずだ。
あれには統計学的な要素が必要なはずだが、あなたの経歴には縁がない。
任されてもできるとは思えないが、ここは是が非でもできると主張して仕事を得たいところだ。

「不定期なご依頼になります」

あなたの心はぐらついた。
それでは生活費を賄えないかもしれない。

「そしてこれが重要なのですが、私どもとの契約期間中は、求人案件に応募することはできません」

あり得ない。

あなたは断ろうと思ったが、もう少し話を聞いてみようと思った。
そこまで行動を縛るなら、それなりのリターンがあってもいい。

「生活のための就業の機会を、ハローワークの都合で制限してしまうからには、
それなりの収入条件は提示させていただきます。まずは、説明をお聞きになったうえでご判断ください」

『それなりの収入条件』という言葉に惹かれながら、あなたは彼女の次の言葉を待った。

「徹底した守秘義務に基づいて、多くの【法人】にお会いいただくことになるので、就職活動で企業と接触することは禁じられます」

(何の話が始まるのか?)

「もし、私どもからの申し出に同意いただけた場合、最初に依頼者とお会いになった後、評価測定を行わせていただきます」

見当もつかない展開に、あなたが発すべき言葉は何もない。
担当官の言葉は続く。

「ハローワークから依頼者にインタビューし、ヒアリング内容を部内で協議した結果、
継続してお願いする決定が出れば、本契約を交わすことになります」

要するに、まずは1回限りの契約を結び、ダメな場合はそのまま契約終了ということか。

IT活用に関する調査と相談受付とか、そんなことか?
経営コンサルタントも、分野によって細分化されている。

あなたはよく知らないが、『ITコンサルタント』なんてのも、巷にはあるのかもしれない。
それの、ハローワーク版といったところか。

なぜ、自分に白羽の矢が立ったか?
元公務員という理由ではないと思うが。

そのあと、担当官の説明は理路整然と続いた。

結局のところ、
「調査し、解決手段を講じ、相手に投与する」とのこと。

あなたの発言を採用するしないは企業の責任。
それによって損害が生じたとしても、やはり企業の責任。

あなたが負うのは、見当違いな解釈をした場合の企業からの評価下落だ。
依頼は減少し、あなたとの契約解除の可能性があるという内容だった。

予想どおり、ハローワークのお抱えコンサルタントか

厚生労働省の天下りOBがふんぞり返っていそうなポジションだが、お飾りでは務まらないと判断されたのか。
それとも、責任者だけが天下りポストで、前線は頻繁な首のすげ替え前提で、民間人にさせているのか。

この際それは考えないことにしよう。
官庁の体裁用に選ばれたスケープゴートかも、と、一瞬頭に浮かんだ不安はすぐに打ち消した。

まずは、契約の継続にかけてみる一手だ。

第3節:皮肉な「書類選考通過」!二股の誘惑?

あなたは契約書を手に、アパートへの道を歩いていた。

時刻はまだ正午前だ。
バッグの中には、ハローワークの担当官から受け取った契約書が入っている。
これに署名捺印して月曜日に提出すれば、同日付で処理され、契約は締結だ。

しばらく歩くと、繁華街に差し掛かり、連れ立って歩くスーツ姿が、あちこちに目立ち始めた。
昼休みの食事のために外出した勤め人たちだ。
何となく浮き浮きした感じの人が多いなと思い、ふと今日が金曜日だったことに気づく。

退職後のあなたは、切迫感に追われて金曜日もへったくれもなかったが、今日は久しぶりに安らぐ週末を迎えられそうだ。

念願の『雇用契約書』というわけにはいかなかったが、
あなたに労働対価をもたらしてくれる『業務委託契約書』を手に入れたのだ。

たった1回きりのものだが。

(喫茶店へ行こう)
金曜日の力が、あなたをそんな気にさせたのかもしれない。

曲がりなりにも仕事が与えられそうだからでもあるが、
何よりあなたが『スカウト』された喜びと実感は、何物にも代えがたい。

転職市場で一切認められなかったあなたに、相手から声がかかったのだ。

たくさんの登録者に届く、まったくあてにならない「オープンオファー」でもなければ
それと何の違いがあるのか、あなたにはさっぱりわからない「興味通知オファー」でもない。

それどころか、面接確定のはずの「プライベートオファー」で、面接前に断られたこともある。
想定外の応募数に泡を喰った人事担当からの謝罪文面と共に。

苦い経験ばかりの中、今回はたったひとり、あなたにだけ声をかけられ、契約も成立寸前だ。
『祝杯』をあげたくもなる。

それに、法人の誰と対面するかわからないが、どんな話にも高いクオリティで対応し、
一回限りのチャンスを、今後も継続していくためのプランが必要だ。

空気の澱んだあなたの部屋は、どう考えてもそれを考える場にはふさわしくない。
貧乏暮らしに外食は厳禁だったが、そんな事情で今日のあなたは喫茶店へ足を向けた。

繁華街のカフェはどこも満員だった。
ランチタイムに続いて、ティータイムもきっと混むだろう。

時間をつぶすため、いつもの道を外れて、少し遠回りな川沿いの道をゆっくりと歩き、夕方近くにようやくカフェに入店した。

昼食を摂っていないので空腹だったが、サンドイッチのセットは高いのでホットドッグとコーヒーにした。

出入り口に一番近いストゥール席を選び、コーヒーを乗せたトレイをテーブルに置いた。
通りを歩く人たちの姿に気を紛らわせながら、煮詰まりそうな思考を丁寧に進めたい。

ホットドッグが出来上がったので、カウンターまで取りに行く。
斜め半分にカットされたコッペパンに、ソーセージが挟まっている。

小さく噛みちぎって、ゆっくりと念入りに咀嚼する。
節約生活で、少量の食事を余儀なくされるときの鉄則だ。

こんなひもじい食事に別れを告げられる日はやってくるのだろうか。

小腹を満たしたあなたは、コーヒーを一口飲み、本格的に考え始めた。

先刻、ハローワークの担当官が口にした、いくつかのポイントを思い返す。

・ITエンジニアとの連携を重視する経営者がたくさんいる
・経営者と事業について語り合えるエンジニアは多くない
・あなたが依頼されるのは、調査し、解決手段を講じ、相手に投与すること

ITそのものの従事者になれという話はなかった。
そんな話なら、素人のあなたに白羽の矢は立たないだろう。
なにしろ “ 10年戦士 ” の技術者は、掃いて捨てるほどいるのだから。

(求められているものは何か)

ITの専門知識や技能はいらないということは確認した。

まずは現場で企業の担当者の話をよく聞いて問題点を引き出すことだ。

企業内のどの部署の人と会うのかは分からないが、まず話を聞いたうえで、あなたのプランを伝え、どのような形で社内に関わるかを決めていけばよい。

誰と、どんな順序で、あるいはどんなタイミングで会うのが最も効果的か。
社内の人間関係の、どの部分からアプローチするかが何より重要だ。

【ITによる情報資産の活用技術】
それが、あなたが提供したいコンセプトだ。

しかし、そこに至るまでに絶対的な必須条件は
【人間関係】なのだ。

IT技術そのものではないという点がポイントだ。
むしろ技術は後から調達できるということを、あなたは経験から学んだ。

【情報資産活用技術 ≠ IT技術】
【情報資産活用技術 = 人間関係力 × IT技術】

その見通しが立たないと、成功はほぼ見込めない。

相談者と向き合った時のイメージが、あなたの頭の中で、徐々に形になってくる
集中していて気づかなかったが、気が付くとずいぶん時間が立っていた。

店の時計を見上げたきっかけは、バッグの中で振動している携帯電話だった。

表示を見ると、しごとセンターのアドバイザーからだ。

(こんな大事なときに・・)
イヤな相手の横やりを迷惑に感じながら、あなたは電話に出た。

「先週応募された▲▲社から、急きょ面接に来てほしいとお話がありました」

あなたは仰天した。
▲▲社とは、今、あなたが応募している企業の中で、最も魅力を感じている会社だ。

「メールでも送りましたが、先方の面接希望日が月曜日なので、
早めにお知らせしようと思って念のためお電話しました」

あなたはあわてて手帳のページをめくり、アドバイザーの話を書き留める。
さっきまでメモしていた相談受付のイメージは、一瞬で頭から消し飛んだ。

「メールのほうに詳細を書いてありますので、確認して当日までにご準備ください」
そう言って、アドバイザーは通話を終了した。

(ノッてきたか)

複数の会社から同時に内定をもらう話は、就職支援セミナーで毎回のように聞かされたが、
あなたにとっては現実感のない、おとぎ話にしか思えなかった。

しかし、とうとう自分にも、そんな状況が訪れてきたような気がする。

アドバイザーは、あなたの職歴の中の、官庁に関する経験が
先方の担当者に評価されたと言っていた。

あなたが地方の出先機関で、事務の責任者だった時の記述を読み
『特に会ってみたい』 と言ったそうだ。

添削セミナーで「効果的なエピソードのはさみ方」を教わった。
その効果が、ようやく芽を吹いたのだろう。

かつてない大波に、あなたの心は躍動した。
すぐに帰って、▲▲社向けに作った応募書類を読み直し、面接でのアピールポイントを整理しておかなくてはならない。

飛び上がるようにストゥールから立ち上がり、カップに残ったコーヒーはそのままにトレイを片付けた。

「ありがとうございます」
店員の声を背中で受けながら、小さな会釈をして喫茶店を飛び出した。

アパートに帰ると、早速パソコンの電源スイッチをオンした。
買ってから6年目を迎え、いい加減くたびれたマシンだ。

なかなか立ち上がらない画面にイラつきながら、
あなたは手帳を開き、さっきメモしたアドバイザーからのメッセージを見返していた。
面接の想定問答をイメージして紙に書こうと思ったが、適当な用紙がない。

あなたはバッグから、昨日ハローワークで出力した求人票を引っ張り出した。
今日応募しようとして、結局できなかった3社分のものだ。

頭に浮かんだフレーズが消えないうちにと、求人票の余白に書き込もうとしたとき、ハローワークの担当官が口にした言葉がよみがえった。

『徹底した守秘義務に基づいて、多くの【法人】にお会いいただくことになるので
就職活動で企業と接触することは禁じられます』

あなたの手は止まった。

思わず頭を抱える。
これは、契約条項に抵触するだろう。

契約書で該当する箇所を探すと、やはり、契約期間中の企業との関わりを禁じる旨が記載されている。

今さらながら、『他企業との接触を契約で禁じる』とは、苦しい就職活動にあえぐあなたにとって、なんと厳しい条件だろう。

だが今はまだ契約前だ。
面接が決まった▲▲社の件の結果が出るまで、締結日を待ってくれないだろうか。

あなたは、ハローワークへ連絡を取ろうと急いで体を起こし、携帯電話に手を伸ばした。

呼び出しのコールを聞きながら、今後のことを考えた。

月曜に行われるのは1次面接だから、その後、役員か社長に会うために、
少なくともあと1回は別の日取りで面接がセットされるはずだ。

内定がもらえるとしても、そこまでに2~3週間はかかってしまうだろう。

一方、担当官は、現在受付を待っている法人がいるから
契約締結後、2週間以内には依頼の連絡をすると言っていた。

そんな状況で、こちらの都合で契約を遅らせてくれとは言いづらいが、
就活に関しては融通をきかせてくれるのではないか。なにせ、ハローワークなのだから。

数回のコールの後、電話がつながった。
勢い込んで話そうとしたあなたの勢いが止まった。

業務時間外のアナウンスだ。時刻は18時半。
明日の土曜はちょうど閉庁日で、ハローワークが開いていない。

(月曜の朝に事情を話すしかない)

不定期、不自由、収入額不明瞭の3要素が、ハローワークとの契約をためらわせる理由だ。

しかし、継続契約(の可能性)があり得るうえ、単発契約とはいえ、確かな収入が見込まれる話に対し、
▲▲社の話は、不採用に終わることも当然あり得る。

だが、▲▲社の担当者は、官庁経験の中でもあなたが秘かな自信と誇りを感じている
「出先機関の事務責任者の経歴」にフォーカスし、高く評価しているらしい。

こんなことは初めてだ。

(今度こそ、うまくいくのではないか?)
正解のない堂々巡りを繰り返す中で、こんな考えも浮かぶ。

(▲▲社は、しごとセンターの案件だ)
ハローワークへは、このことを隠しておいて、まずは面接を受けてしまうことが可能だ。

可能性はできるだけ確保しておくという考え方だってあるだろう。
生活がかかっているのだから。

(いや、しかし・・)

【徹底した守秘義務】のもと、業務を行う人間の行動は、徹底的に調べられるかもしれない。

(やはり、契約日の先送りを打診しよう)
たったふたつの話を受けただけで、こうも振り回される我が身の不自由さがもどかしいが、あなたとしては、そのほうがすっきりして面接に臨める。

普通の求人とは違うのだ。仕方がない。
とはいえ、せっかくのチャンスを、正体不明のオファーと天秤にかけることが、あなたの人生にとって、正しいことなのだろうか?

結局、伸びやかな金曜日は、あなたには訪れなかった。

『起業支援の【法人】受付部門』

これについて調べようと思いついたのは、土曜日の朝だった。

ハローワークのホームページをいくら探しても、そんな部門はなかったし、
起業支援活動のページから探しても、それらしき情報は見当たらない。

「生活のための就業の機会を、ハローワークの都合で制限してしまうからには、
それなりの収入条件は提示させていただきます」

担当官はそう話していた。

契約書には、
“ 最低限度額として、本契約の締結日から起算して、【 法人 】への対応後、
評価測定協議の最終日までの日数(勤務を要しない日を含む)に
直前に受給した失業給付の日額相当を乗じた金額を支給する ” と書いてある。

読み取りづらい条文だが、元公務員のあなたにとってはありふれた文章だ。
むしろ序の口レベルで、読み易さすら感じる。

担当官によれば、2週間以内に相談を受けるそうだから、仮に14日間とすれば、8万前後の収入が期待できる。
その間、就職活動をしてはならないという点が、通常の失業給付と正反対な特徴だ。

しかし、「それなりの収入条件」と担当官は言ったが、これではまともな暮らしができそうにない。
何よりもまず、普通の勤め人だった頃に借りたこのアパートからは出ていかなければならない。

とはいっても、敷金・礼金・仲介手数料・火災保険料・引っ越し費用などを捻出できない。
だが、ハローワークの役人が、この事情を理解してくれるとは思えない。

あるいは、【最低限度額】という文言に、あなたが救われる要素を見いだせるのではないか。
何らかの条件を満たすことで、多少なりとも収入のアップは可能かもしれない。

さらに契約書の但し書きを見ると
“ 但し、別途報酬等が支払われる場合において、その金額が最低限度額を上回る場合、
最低限度額の計算による支給は行われないものとする ” とある。

最低限度額とはあくまでも補償されるものだ。

たとえば14日間の契約期間中に、なんらかの形で6万円の報酬を、企業またはハローワークから受け取ったとする。
その場合、あなたは2万円の補償を受けて所定の8万円の収入(最低限度額)になる。

しかし、受けた報酬が10万円だった場合は、補償の対象にならない。
最低限度額の計算は行われず、契約期間の収入は受け取った10万円になる。

「別途報酬等」の正体は不明だが、まずは暮らせるだけの収入を得て、アップさせる方法を探す。
そして、自分が今後生きていくため、何とか事業が継続できれば・・

そう考えている最中、ふと我に返る。

(なぜハローワークの話を受ける前提で考えているのか?)
あなたには▲▲社の話も来ているのだから、こちらの可能性もあるのだ。

もし、▲▲社へ入社できれば、今の生活をするには月々の給与で十分なうえ、貯蓄もできるのだ。

あなたは改めて、月曜日の面接対策にいそしむことにした。

月曜の朝、8時前に、あなたはすべての準備を終えた。

8時半にハローワークに連絡を入れて、そのあとすぐに出発する。
携帯からかけて音が途切れたりすると厄介だから、自宅の固定電話からかけるつもりだった。

しかし、契約締結の延期を要望するとして、一体どのくらい延期してもらえばよいだろうか。
当然、先方もそれを訊いてくるはずだ。

欲を言えば、▲▲社が不採用と判明するまで、延期してほしい。
ただ、さんざん日延べしたあげく、もしも▲▲社から内定が出たら、ハローワークへは顔向けができない。

さらに欲を言えば、まず今回の1次面接の結果が出るまで契約の締結は待ってもらい、
次の面接に進めれば、さらに待ってもらいたい。

そうやって、もし3次くらいまで面接が実施された結果、内定になったら、その時点で断らせてもらいたい、が・・
・・さすがに、そんな虫のいい話、自分なら認めないと思う。

あなたは、ひたすらにハローワークの開始時間を待った。

「現在、相談を希望している【法人】がたくさんありますので
本日の契約締結後、直ちに受付の選定作業にかからなくてはならないのです」

8時半に、後ろめたい気持ちで恐る恐るかけた電話。
担当官の声は、あなたの虫の良い考えを、早々に打ち砕いた。

「先週お話したことですが、今回、欠員が出たための依頼ですので
もしお断りになると分かれば、すぐに別の候補者をあたらなければなりません」

その場での決断を迫られた。
最も恐れていたことだ。

あなたの生活が、そして人生がかかったこの決断を、それこそ断腸の思いでしなければならない。
しかも、早急にだ。

沈黙するあなたに、担当官の声がさらに追い打ちをかけた。

「このあと午前中に面接を受けられても、午後にハローワークとの契約を締結したら、
速やかにそちらの会社へ辞退を申し入れて頂かなくてはなりません」

(・・・)
それでは、▲▲社の面接を受ける意味がない。

やはり、ハローワークの依頼を断るべきだろう。
あなたは受話器を握りしめ、ゆっくりと息を吸い込んだ。

あなたは受話器を置き、ガックリとうなだれて深いため息をついた。

人生の道に現れた救いの主が差し伸べてくれた手を、
あなたは悪魔のささやきに惑わされて、振り払ってしまったかもしれない。

今この瞬間のあなたを見て悪魔はほくそ笑み、天使は悲しげに眉をひそめている気がする。

▲▲社へ、「昨日からインフルエンザを発症したため行けない」と、嘘を言った。

『別のところが決まったから』とは、あえて言わなかった。
その “ 別のところ ” は、たった1回限りの契約なのだ。
“ 決まった ” などというフレーズは相応しくない。

それに、病気が原因なら、万に一つ、別の日取りで面接が組まれるかもしれない。

だからあなたは、▲▲社へ電話する前に、
「完治したら是非、前向きに考えさせて頂きます」
という言葉を準備しておいた。

しかし、▲▲社の人事担当者は、
「ではまたご縁がありましたら」と言って電話を切った。

「お大事に」とも言っていた。

是が非でもあなたが欲しいというわけではないと言い渡されたも同然だ。

あなたはスーツの上着を脱いで足元へ落とし、ネクタイを外すと、くたびれたベッドの上に倒れ込んだ。

しごとセンターのアドバイザーへ、断ったことを電話する気にはなれない。
メールで連絡しておこうと思ったが、それも今すぐする気にはなれなかった。

その日の正午、私服姿に戻っているあなたは、ハローワークへの道をトボトボと歩いていた。

3日前のほぼ同じ時刻、あなたは同じ道を、伸びやかで、少し誇らしげな気持ちで歩いていた。

今は心に大きな風穴が口を開けている。

片側3車線の大きな道路を越えると、ハローワークが入っているビルだ。
信号が青に変わっても、渡らずに立ち止まっている自分に気づく。
到着を遅らせたい心理が、あなたの足取りを重くさせるのだ。

しかし、▲▲社の面接を断り、他の応募中企業から何のリアクションもない現在の状況では
道はひとつしかない。

請けるしかないのだ。
ハローワークからの話を。

今朝から何度ついたか忘れるほどのため息を、また深々と吐き出す。
人生のボタンを掛け違えたのは、過去のあなたのどの決断だったのか・・

顔を振り上げて空を見た。
やはり今日もまた、曇り空だった。

第4節:めざせ! 相談業でのリピート顧客獲得

総合窓口で、担当官を訪ねてきた旨を告げると、すぐに案内された。3日前とは違い、今度案内されたのは応接室だ。
あなたは自分の服装を見下ろし、少したじろいだ。そういえば今日は、改まった契約締結の場だ。

今度はきっと、彼女の上司も同席しているだろう。もう少しまともな格好で来るべきだったかもしれない。
動揺するあなたの内心など知る由もなく、案内の係員はドアをノックして開け、あなたに入室を促した。

遠慮で少し伏し目がちに足を踏み入れ、そっと顔を上げると、担当官が立ち上がってあなたを迎えている。

今日は中間色のパンツスーツだ。
前回はテーブルに隠れて全身は見えなかったが、思っていた以上にほっそりしたスタイルだ。
黒髪が、スーツの色とのコントラストで、衣装以上に引き立って見える。

彼女はかすかな笑みと共に、あなたに着席を促した。
他には誰もいない。今日も一人なのか。

それも気にはなったが、まずはさっきの電話の件だ。担当官の方から口にしてきた。

「いかがされましたか。面接のほうは」
あなたが断ったことを告げると、担当官はそのことに感謝し、改めてあなたの意思を確認した。

あなたの答えは、言うまでもない。もはや、まな板の鯉だ。
8万円の収入の為に、チャンスをフイにしたのだから。

「守秘義務に則り、面談室で交わされたいかなるやりとりも、決して他言することはできません」

早速、契約内容の説明に入った。
この話は前回の対面時に聞いているが、よく聞くとあなたの認識とは違っていた。

「もちろん、私どもハローワークの職員にも、面談内容を話すことができません」

つまり、面談時に何を言われ、何をされたとしても、それを訴えることは禁じられるのだ。
ハローワークと接触する多数の企業の中には、人格的に壊れているような輩だっているかもしれない。

依頼人の立場をいいことに、『評価を下げるぞ』などと脅され、暴力を振るわれたとしても、
そのことを誰にも言えないということだ。

あなたは気になって、これまでこの仕事を担当していた前任者が、なぜ辞めたのかを担当官に訊ねてみた。

「残念ですが、それはお伝えすることができません」

どうにも怪しい。
この契約の為にフイにしてしまった▲▲社のことが、あなたの頭いっぱいに広がった。

(やはり、あちらを選ぶべきだった・・)
悔やんでももう遅い。やはり、こちらが悪魔のささやきだったに違いない。

天使はあのとき、あなたの頭の上で▲▲社を指さしながら、
「こっちだよ」とあなたを必死に導いてくれていたと思う。

(悪魔のささやきなら、せめて愛想ぐらいよくしたらどうだ)

あなたがそう考えていると、愛想はともかく、担当官が説明を補足した。

「もし、面談室で人道に反するような行為が行われ、受託者(あなた)に著しい各種の損害が発生した場合は、
当然裁判になると思います。そのとき裁判所の命令があれば、面談室内の事柄はオープンにしなければなりません」

それはそうだろう。

「でも、現在までそういった争議は1件も起きていません。
これまでに、この業務委託を請けて頂いた方は、契約締結時に必ずそこを確認されますが、
結局それは全て、締結時だけの心配となっているのが事実です」

信用してよいものだろうか。いくら役所だからといって。

(署名捺印さえしなければ、こんなものに振り回されたりはしない)

だが、頭の中では砂時計がサラサラと落ちていく。
残り少ない上部の砂は、あなたの生活資金だ。

時は金なり。世の中は金がすべて。
そう、今のあなたには、選択の権利はあっても、選択の余地がない。

担当官からの電話を受けたのは3日後、木曜日の朝だった。
面談は来週火曜日の午後2時。

総合受付には立ち寄らず、定刻10分前に面談室へ入り、相手を待つようにと言う。
担当官は同行せず、案内もないという。

いよいよ怪しい。
外部との連絡を徹底的に排除し、当事者同士以外の接触を完全にシャットアウトする。
本当に、そこまでしなければならないことなのか。
相手の社名も、担当者の名前も謎のままだ。

あなたは、今朝からまだ起動していないパソコンに、チラリと目をやった。
月曜日から3日間、就活は停止している。

応募書類を作らず、転職サイトのチェックもしていない。
こんなことは、本当に久しぶりだ。

ハローワークへも行かず、時間に余裕ができたのに、恒常的な焦りを感じて落ち着かない。
強迫観念に駆り立てられて就職活動の日々を送っていたが、いつしかその「強迫観念」が
あなたの支えになっていたことに気づく。

つっかえを失った恐怖感ばかりが募り、せっかく得られた成果(時間的余裕)が目に入っていない。

(正社員時代、休日の朝は何をしていたか)

もはや、あいまいな記憶だ。
溜まった洗濯物を、洗濯機の2回まわしで片づけ、散らかった机の上を片づけ、
ぼんやりとショッピングモールを閲覧し・・。

たしか、そんなパッとしない、1日のスタートから、平坦な時間を過ごしていたような気がする。

平日の5日間、猛烈に効率を追求してきた分を埋め合わせるように、
無為な時間を垂れ流してこられた時代は、なんと、もったいなくも平和な生き方だっただろうか。

無職の今は、家事は平日に済ませられる。
急に時間ができても、何をしてよいかわからない。
時間を埋めるだけの指向性がなくなっているのだ。

時間をつぶしつつ、思考の時間をたっぷりとれるのは、
近所にあるチェーンのカフェ店で、食欲をごまかしつつ、安いコーヒーを飲むことだが、
平日の昼間に毎日通うのは、どうにも世間体が悪い。

無職である自分を、自分自身が恥じているために、人の目が怖いのだ。

「働く」という形で労働力を提供する代わりに存在を許されているかのように。

だからなのだろう。公務員を退職し、初めて職を失った瞬間から取り乱した。
“ 強迫観念 ” は、何も今始まったことではなく、自分の無力感が表出したときの発作みたいなものだ。

本当の問題から目をそらすのに便利な道具なのだ。
今だって本当は、無職だから辛いのではなく、自分自身とじっくり向き合う機会が何より辛く恐ろしい。

あなたは、現実から目をそらす方法を『効率』と呼び、表向き順調にやり過ごしてきた。
結果として、自分で自分の価値を探すことができなくなった。

自分で自分を認めていないからこそ、あなたを認め、応援してくれる真の友人の姿は見えず、
あなたを受け入れ、傍らにいてくれる真の恋人の姿も見えず、
あなたを待ち望んでいる天職にも巡り合えない。

本当は、自分に起きた事象を、そのまま素直に受け入れ、焦って解消しようなどと考えず、
実感と共に時の流れに身を任せることが、あなたにとっての『課題』なのだ。

それに本腰を入れて取り組み始めた時こそ、見えなかった目の前の扉が開き、あなたの本当の人生がスタートする。
本当の苦難、本当の喜びに出会える、あなたが居るべき世界だ。

そこには、本当に分かり合える友人や、心から愛し合える恋人や、
生涯かけて取り組める天職が待っているはずなのだ。

今のような窮地は、そこに気づける好機なのだが、そうもいかないまま日を送り、日曜日を迎えた。
週が明ければ約束の火曜はすぐそこだ。

ひとりきりのアパートの室内は、相変わらず空気が澱んでいて
窓を開け放っていても、解消される気配さえ感じられない。

だからあなたは、今日も外へ出ることにした。
ブラブラと歩くうち、最寄り駅のそばに近いた。
乗降客が多い駅なので、駅前はかなりの人通りがある。

「手相の勉強をしているんですが・・」

改札口の前で、こう言いながら近づいてきた20代と思しき若い女性の顔を、
あなたは少し呆気に取られたように、見守ってしまった。

ときおり見かける『路上の手相鑑定』だが、声をかけられるのは女性だけだと思っていた。
しかし、いま彼女が見上げている相手は、まぎれもなくあなただ。

まさか自分がその当事者になるとは・・。
しかも、よりによって、あなたが手相鑑定を受けるなんて。

いつもなら当然、足を速めて相手を振り切るところだ。
だが、あなたは足を止めた。

ふと、「相談する側」の気持ちになってみたくなった。
企業の担当者は、どんな気持ちで自社の問題を相談するのだろう、と。

それを敏感に感じ取ったのだろう。
彼女は、聞く姿勢を見せたあなたに話し始めた。

「実習のためにいろいろな方に声をかけてご協力いただいているんですが、いま少しお時間よろしいでしょうか」

周囲からの好奇の目に対する照れがある。
あなたの返事はあいまいだったが、彼女は明るい声でありがとうございますと言いながら、あなたの手を取った。

既に何となく持ち上げて開いていた両手をひじの高さで止め
あとの残りは彼女が持ち上げてくれるのを待った。

“ 彼女のほうから手を取ってきたから、自分は仕方なく ” という、
あまり意味のない面目を保ったあなたの反応は、照れ屋な男性の典型パターンだ。

「とても繊細な方なんですね。でもすごくさっぱりしていて・・」
というところから始まった彼女の解説を、あなたは半分うわの空で聞いていた。

実は一番関心のあった、“ これからどうなるか ” については、

「努力家で、すごく個性的なので、自分が納得する形で、きっと切り拓けると思います」
という、当たり障りのない、そして満足もない回答しか得られなかった。

『鑑定の勉強中』だから、まだ未熟だということなのか、
それとも、彼女が持つ鑑定の才能は今後もそのくらいの切れ味なのか、
あなたにはわからないが、モヤモヤした感覚だけが残った。

(無料だし、仕方あるまい)
変なものを売りつけられたり、宗教の勧誘ではなかっただけ、良しとするしかない。

(良しとするしかない)
相手がアマチュアで、期待値が低いから、品質が高くなくても納得できる。

だがもしそこにフィーが発生していたら・・
プロに依頼し、成果に期待していたら、納得できない結果はシビアに評価される。

手相見の若い女性と離れたあなたは、周囲からの視線を気にして、急ぎ足でその場を去った。

不満はないが、満足もないという内容だったが、あなたは彼女を、それで許した。
あなたに相談してくる企業の社員は、あなたを許してくれるだろうか。

こちらが初仕事であることは、ハローワークからの説明で知っているはずだ。

だが、たくさんの企業がハローワークを通じて相談依頼をしているのなら、
せっかく巡ってきた自社の順番がお試しの場になることを、きっと承知しないだろう。

つまり、あなたがビギナーでも、相応の成果を求めてくると考えて間違いなさそうだ。
『お試しの場』なんていう、あなたの側から見た言い訳は通用しないはずだ。

必要なのは、“ コンサルタントとしての面目躍如 ”
それを果たせなければ、相手はあなたを許さないと思うのが妥当だ。

相手は面談時間と労力に加え、あなたにかけた期待までをも、無意識に『コスト』として認識するだろう。
時間や労力はともかく、「かけている期待」は相手自身にも自覚がないだけ、
それが表面に出るときには、露骨でシビアな『評価』という形をとる危険性が高い。
見えない期待を上回るリターンを提供しなければ、積極的なリピートはないと考えてよさそうだ。

もちろん、占い師ではないから、
「10年後にこんな感じになります」とか
「来年の春頃に、良いパートナーに巡り合えそうです」
なんていう、ゆるい回答は受け付けてもらえない。

多くは「90日後」とか、「半年のうちに」といった期限の中で
「○○%の売上アップ」や「××円の価格改善」
または「△円程度の株価へのインパクト」なんていう限定数値への説明責任も伴うだろう。

だから、たとえあなたが短時間で面談を終了させ、『対面時間』という点で割高感を防いだとしても、
相談そのものへの解釈投与レベルが低かったら、あなたの面談は期待値をはるかに下回り、
面談の手際の良さが、かえってマイナスポイントになってしまう。

「もうちょっと、しっかりと時間をかけて判断してもらいたい」
といった具合に、ハローワークに報告されるに違いない。

改札口前を離れると、あなたは急速にスピードを落とし、ブラブラと歩いた。
乗降客の多い駅前は、閑散とすることがない。ぼんやりと周囲の風景を眺めていても、なかなか飽きが来ない。

空腹のせいだが、あなたの目は飲食店にばかり吸い寄せられた。

インド料理店の前を通るときに、あなたの脳裏には、カレー3種とタンドリーチキンを卓に並べ
やけどしそうなアツアツのナンをちぎる自分の姿がやたらと鮮明に描かれた。

ナンは、チーズナンだ。
ちぎって持ち上げ、指先の熱さをこらえながら、細い糸のように伸びるチーズが切れるように持ち上げていく。
そんな光景がありありと浮かぶ。

いつの日か、そんなことが好きなだけできる身分(収入)を得たいものだ。

第5節:【法人】現る

地下4階。
面談の現場は、そんな非日常な場所だった。

そんな低い階層へ足を踏み入れるのは、霞が関勤務の頃以来かもしれない。
ハローワークの中にも、そんな場所へ行きつけるエレベーターは1基しかない。

カードキーのロックを通過し、エレベーターの前に立った。
キーは数日前、あなたの自宅に書留で届いた。
持っている職員がほとんどいないため、くれぐれも忘れてこないよう注意されている。

大げさな道具立てだ。
これも「守秘義務」のためか。
しかし、たかがコンサルにここまでの大仕掛けが必要だろうか。

役所は特別だからと、役人が片意地を張っているのか。
そうだとしても、さすがにこれは度が過ぎていると思う。

ただ、労働基準局が相談を受け付ける部屋は、入室するために扉を二つ抜けるそうだから、
同じようなシチュエーションを検討した結果、こんな “ 特別室 ” が準備されたのかもしれない。

そういう理由でないとしたら、それこそあなたが恐れている、
「暴力の現場を隠ぺいする舞台装置」の可能性も否定できない。

エレベーターの扉が開いても、あなたは外へ出ず、周囲の気配に耳を澄ませた。

薄暗い廊下には人の気配がない。
『開く』ボタンを押したまま、そっと首だけを出し、左右を見渡す。

右奥はすぐに行き止まりだ。
左側の奥は、照明が無く、先まで見通すことができない。

あなたの行く先は、エレベーターの左斜め向かいにある細い通路の奥だ。
廊下から90度に曲がっているので、ここからだと完全に死角になる。

通路の前まで歩き、7~8メートル向こうの奥を見ると、薄暗くて柄は判別できないが、
扉ではなくカーテンが垂れ下がっている。

(ここまで来たら、扉で遮断する必要はないということか)

ふと気づくと、通路の途中に非常階段の扉がある。
あなたは少し安堵した。

いざという時、あなたが大声を出せば、上の階層にいる人の耳に届きそうだ。
(地下3階に人が常駐していれば、だが)
何より、あなた自身がそこから逃げ出すこともできるだろう。

エレベーターの扉が閉まる音がやむと、地下4階フロアには完全な静寂が訪れた。

ゾクゾクして、尿意を催す。
そういえば、このフロアにトイレはあるのだろうか。

それはあとで確認するとして、まずあなたは非常階段口の扉に近寄り、
ノブに手をかけてゆっくりと回してみた。

そっと押してみると、さび付いた蝶番が大げさな音を立てた。
あなたはぎょっとして周囲の気配をうかがってみるが、誰かが音を聞きつけたような気配の変化はない。

まだ約束の20分前。相談者は来ていないらしい。

エレベーターの扉は閉じたまま。
回数表示は「B4」から動いていない。

そこで気づいたが、トイレはエレベーターのすぐ隣にあった。
扉は半開きになっていたが、中の照明が消えているので気づかなかった。

もう一度非常口に視線を戻し、握ったままのノブをさらに押してみると、扉は開く。
ゆっくり外へ足を踏み出す。

慌てて足を止めた。
貼ってあるプレートの文字の意味が、ようやくあなたの意識に飛び込んできた。

“この扉は反対側からは開きません。”

たしかにこの地下4階は、災害などの非常時には使われないだろう。
非常口が外への一方通行になっているのは当然かもしれない。

そして、これから起こるかもしれない、あなたにとっての 『非常時』にも、一方通行は何の妨げにもならない。
むしろ、あなたが相手(達)より先に通路から階段室に身を移せば、
扉は相手から身を守る『盾』にもなりうる。

とりあえず、身を守るプランが立った。

(早めに来てよかった)
あなたは非常口の扉を閉めて通路の奥へと進み、薄いカーテンをはぐって中に入った。

かすかなモーター音だけが、壁を通して聞こえている。
あなたが椅子に腰かけてから、約10分が経つ。

心臓の鼓動がやけに大きく響く。
口の中が乾いてくるので、あなたは何度もマグボトルを傾け、緑茶で口を湿らせた。

不意に人の声がして、あなたは、飛び上がるほど驚いた。

あなたを運んできたエレベーターは、地下4階に止まっていたはずだ。
これが動き出したら、相手が下りてくる合図だと思い、作動音にはずっと注意を払っていたが、
間違いなくエレベーターは動かなかった。

それなのに、カーテンの向こう立っている人間が、部屋の中へ向かって声をかけてきた。

廊下の奥の暗がりで待機していたのだろうか。
相手の待機場所は、ハローワークの担当官から聞かされていない。

あなたの動悸は急速に早まり、アドレナリンが体中を駆けめぐるのを感じる。

(何人で来やがった)
あなたは、瞬時に闘争的になった自分自身の思考に驚かされた。

(何人いようが、全員潰してやる)
続けて当たり前のようにそう考えた自分自身に、さらに驚かされる。

これまでになかった思考プロセスだが、まるであなたが最初からそういう人間であったかのようなナチュラルさだった。

というより、何も考えていないのに、イメージだけが形成され、
しかもそれは、「当然そうなる」という根拠のない確信を伴っていた。

受託契約とか、収入とか、自信のなさとか、ほんの少し前まであなたを取り巻いてきた
重苦しい思考の渦は一瞬のうちに無と化して、
闘いの意思をみなぎらせたあなたが、そこにいるだけになった。

さっき確認した逃走経路のことも、既に頭から消え去っている。
『開き直る』とは、こんな感覚なのだろうか。

逃げられないのは、むしろ相手のほうだ。

こんな文脈、あなたの人生に無かったはずだ。
自分でないような自分。
死を考えざるを得ないほど追い詰められたときに現れる正負の逆転スイッチを押すことに
あなたは成功したのかもしれない。

あなたの招き入れに応じて、相手はカーテンをはぐって入室してきた。
ひとりだ。

やや細身の中年男性が、グレーのスーツに身を包んで立っている。

それを迎える(迎え撃つ)あなたの目は、当のあなた自身は気づかないが
中途半端な保身を一切捨てた清々しさをたたえ、挑戦的な輝きを発していた。

相手の表情に、一瞬「オヤ」という風な動きがあった。

無理に気負った新米コンサルタントに感じる
『張り子感』は、今のあなたにはない。

相手の男は、そういう『張り子』的な人間が待っていると予想していたのかもしれない。
あなたは静かな笑みを浮かべ、イスを示した。

相手は少し打たれたように棒立ちになった後
軽く頭を下げて、大人しくあなたの示唆に従い、腰を下ろした。

ハローワークから御社のことは何も聞かされていない。名前さえ知らない。

というありのままの事実を伝えながら、頭にひらめいた質問に、相手は驚き、戸惑う様子を見せた。
予想外だったに違いない。

御社の名前を知る必要があるか?
あなたの質問内容が、これだったからだ。

社名は聞かない。
今、目の前にいる担当者の名前も聞かない。

どうせ事前情報がゼロなら、そんなものはこの場の相談内容には必要がない。
そう割り切ったあなたは、相手の素性を聞かない方針を取ろうとしたのだ。

しかし、首を振った相手が口にした社名を聞いた瞬間、
むしろ戸惑ったのはあなたのほうだった。

「私は、▲▲社です」

(・・・)

あなたが、この相談業務の契約締結の日、せっかくの面接オファーを苦渋の決断で蹴った、
あの会社ではないか。

・・しかし、そんなことがあるだろうか。

ハローワークとの契約日の朝、応募中企業の面接を受けたいから、
締結は少し遅らせてもらえないかと、あなたは担当官に告げた。

だが、社名までは明かしていない。
それに、▲▲社に応募したのはハローワークからではなく、「しごとセンター」からだ。

しかし、しごとセンターも、運営が民間企業なだけで、組織自体はれっきとした公的機関だから、
実態は密につながっていて、あなたを試したのかもしれない。

「契約期間中だが、こっそりと▲▲社の面接だけは受けよう」
と考えたことが一瞬頭をよぎり、あなたはたじろいだが、すぐに立て直した。

結局あなたは全てを正直に話し、ハローワークとの間で違反行為をしてはいない。
『初回はお試し』の意味が分かった気がする。
あなたという人間が、本当に信用できる人間かという、手の込んだ仕掛けではないか。

となるとこの男は、本当は▲▲社の人間ではないのではとも思う。
そこに対して、何となく探りを入れてみたくなった。

社名を聞いたので、部署も聞いておきたいと、あなたは男に聞いてみた。
が、その答えは、あなたが求めているものではなかった。

「私は、▲▲社です」

先ほどと全く同じ言葉を、同じ口調で繰り返す相手の目を、あなたは無表情に見つめた。
頭に浮かんだのは疑問ではない。

(おちょくっているのなら、許さん)
相手の目にピタリと焦点を合わせたまま、あなたは無言を保ち続けた。

まるで真剣での立ち合いのように、相手の出会いがしらを撃つ気迫を保ちつつも、
静かな心境のまま、あなたは平然と沈黙を続けた。

あなたが知らなかった、自分自身の一面が続出する。

(撃ってこい)
と言わんばかりの堂々たる態度。
重心はしっかりと沈み、上半身に余分な力は一切入っていない。

長い沈黙に耐えられず、先に音を上げたのは、相手のほうだった。
いや、あなたの得体のしれない気迫に対して音を上げたのかもしれない。

「失礼しました。何もご存じでないことは承知しています。
今はあえて言葉を少なくして、反応を確かめさせてもらいました」

男は、居住まいを正して姿勢をまっすぐにし、つつましやかに言葉をつないだ。

「私は【法人】です」

ほうじん

4文字の音に、様々な漢字や慣用表現を当てはめてみた。

真っ先に思ったのは『邦人』だ。つまり日本企業。

だが、それだと意味がつながらない。
何とも皮肉なことだが、▲▲社についてあなたは詳しい。
就職を夢見て、必死に調べたから、▲▲社が日本法人であることは良く知っている。

そこへ勤めている日本人だということが、この局面で何の説明になるというのか。
釈然としない空気感を発するあなたに対し、男は言葉を続けた。

「ハローワークから、【法人】部門の依頼としてお話を受けているはずですが、
その【法人】部門とは、直接【法人】と接触する、特殊な役割を担っている部署なのです
そしてこのことは、内密にされています」

だから、なんだ。
その法人から来た【個人】ではないか。
いい加減な茶番は聞く耳を持たない。
あなたは無言の気合で、相手の言葉を弾き飛ばした。

さすがに男も、辟易し始めたようだ。

「私はその【法人】なのです。個人ではありません。
にわかに信じ難い話でしょうが、実在するのです」

少し言い訳じみた感じでそう言った後、小さくため息をついて話を続けた。

彼によれば・・

一部特定の立場にある者を除いて、人間とは接触しない。

登記簿やホームページ、コマーシャルなどで、世間一般に姿をさらしている法人の意思決定や行動は、
法人に所属する個人たちが行う。

ここまでは、常識的な、誰でも知っていることだ。

しかし、あらゆる活動のきっかけを生み出し、会社という「場」を醸成する根本的な力は
すべて【法人】が担っている。

ということらしい。

作り話としても、興味深いことだ。

ITのシステムに例えれば、通常はインターフェースを通じてしか
情報を抽出したり、書き換えたりできないのだが、
そこをすっ飛ばして、サーバに直接データを書き込める権限を持っている
“ 人 ” だというのだろう。

内心面白がりながらも、あなたは身じろぎせず、黙って男の話を聞いていた。

(あなたをダマす話の前振り)

もしくは
(そういう妄想にとりつかれた、ただの変人)

そのどちらとしか考えようがない。

当然、その【法人】とやらであるという証拠を見せろ、と言っても無意味だろう。
とりとめない話を延々と聞かされるのがオチだ。

そのとき、あることが頭の片隅にひらめいた。
イメージは一瞬で筋書きに展開され、思う間もなく言葉となって発された。

思考が、行動に追いついていない。
あなたには珍しいことだが、そういえばさっきから、その連続だ。

かろうじて認識できたあなたの思考は二つしかない。

(茶番に付き合わされる筋合いはない)

(逆に、こちらから茶番を仕掛けてやる)

あなたが言ったのは、今回の相談内容を一言で言えというものだった。
相手は逆らわず、たったの一言でそれを告げた。

それだけ聞き取ると、あなたは後日の再面談を要求した。
相談内容へは、その時に回答する、と告げた。

「希望日はありません。ハローワークへ面談日を申し入れてください。私はその日にこちらへうかがいます」
男はあっさりと承諾した。

あなたは席を立った。
担当官から、面談終了後は、あなたが先に退出するよう説明を受けている。

地下4階に止まったままのエレベーターは、ボタンを押すとすぐに扉が開いた。
あなたはその足で、担当官のところへ向かった。

面談時間:5分(うち、沈黙時間4分余り)

第6節:いっそ、占ってしまえ!

『次回面談は3日以内』という規定があることから
どうやら次回面談の約束をした受託者は、 あなたがはじめてではないようだ。

それはそうかもしれない。
【法人】のことを信じるかどうかは別にして、受けた相談にそつなく対応するため、
いったん企業名を知ってから、改めてその会社のことを調べようとするのは至極当然だ。

ホームページ、会社四季報、有価証券報告書、帝国データバンクからネットの2ちゃんねるまで、
企業情報を調べようと思えばいくらでも情報ソースがある。

求人情報や、商品に対する通販サイトの口コミレビューだって、立派な情報だ。
ひと月もかけて調べつくしたら、 ずいぶん詳しくなるに違いない。

ハローワークが「3日以内」と期限を切るのは、【法人】側の要求もあるだろうが、
日数分だけ受託者に支払う報酬額が発生するからという事情もあるに違いない。

情報収集に時間をかけて契約期間を長引かせる受託者も、かつてはいたのかもしれない。
せっかく得た収入源を確保しようとする人がいるのもよくわかる。

その一方、地下4階という怪しげな場所で、いきなり二人きりにされて事態が呑み込めぬまま、
行き当たりばったりの頼りない面談をしたあげく、「能力なし」と一回限りで切り捨てられる
『正直で素直で、小心な受託者』も、ずいぶん居たことだろう。

そんな中、「まず時間をくれ」と要求できる図々しさを持った、その他大勢の中のひとりだ、と
あなたは思われたかもしれないが、担当官の思惑など、あなたの眼中にはない。

そんな思惑とは次元を異にする、非常識なプランにあなたの頭脳は没頭していた。


ジョハリの窓

心理学ではよく知られた
「対人関係における気づきのグラフモデル」
4つに仕切られたマトリクスは、自分自身に対する、自己と他者の理解についての領域を表している。

1.Open Self
自分が知り、他人も知る、『自他ともに公開中の』自身の姿
2.Blind Self
自分は知らず、他人からは見えている、『気づけない』自身の姿
3.Hidden Self
自分だけが知り、他人には見せていない、『気づかせない』自身の姿
4.Unknown Self
自分にも他人にも気づけない、『潜在する』自身の姿
【法人】に、これを当てはめてみようというのがあなたのプランだ。

本来は個人相手の交流用なので、1~3については次のとおりかと思う。

1.一般的な社交レベル
2.コーチングや指導といったところ
3.相手に自己開示を促す作業

2の特徴として、対象となる事柄において、経験や技能で相手を導くだけの実力と、
それに見合う確かな指導力を持っていることが必須だ。
一方、3は、相手と同じ経験は持っていないにもかかわらず、交流が成立する関係性を作るための
カウンセリング技術を使いこなせるなど、高い人間力を要するのが一般的だ。

ちなみに4はその存在を感知できないので通常、コミュニケーションの題材にできない。

いずれにしても、2と3については、当然、1の社交レベルとは次元が違う。
素人のマネゴトでは到底務まらない。
ではこれらのことを【法人】に置き換えたらどうなるか?


1は公開情報に基づいた、表面的な対話で交流する浅いレベルだ。
これに頼って面談を進めるようでは、相手の【法人】には、それを見透かされてしまう。
早々と契約解除だ。今回あなたがこれをやれば、継続契約にすらならないだろう。

それに対し、2と3は、コンサルタントやファンドマネジャーレベルといえる。
最低でもこの水準が要求されるはずだ。

調べた企業情報をそのまま吐き出すのではなく、使いこなす。
それも、プロのレベルで出来なくては、相談業務従事者としては失格だ。

ちなみに、ハローワークが、プロのコンサルタントや、ファンドマネジャーに
この面談の担当を依頼しない理由は、様々に考えられる。

【法人】という摩訶不思議な存在がいるという荒唐無稽なことが、もし本当のことだとしたら、
彼らとの付き合いを『商用』として捉えるのはそれら職業人(プロ)の本能と言える。

決して表に出ない、企業の裏情報を知り、何らかの形で利用する可能性がゼロではなく、
それでは社会に混乱をきたす危険性が高いとして、あなたみたいなアマチュアが抜擢されるのだと思う。

たしかにあなたはアマチュアで、コンサルタントではないが、
これまで成り行き上で、コンサル的な働きをするケースが比較的多かった。

応募書類では、その経験をアピールできず、散々苦しんできたが、
今回、それを活かす機会を与えられたわけだ。

「2(本人が気づいていない)」の部分に踏み込むこと。
「3(本人の隠し事)」へアプローチすること。

両方とも、やればできるかもしれないし、むしろできるという自信もあるが、それをするつもりはない。
無論、1(社交、表層)などは論外だ。

あなたが、ハローワークの地下4階で、相手が【法人】と名乗ったとき、すぐに思いついたのは
「4」(自分にも他人にも未知の領域)へ直接にアプローチすることだった。

自分からも他人からも未知の領域に潜在する自分。
それは、内政視では視界に入らない。

もちろん、他人から見える表情や言動・仕草にだって、そう簡単には表れない。
だからこその「未知の領域」なのだ。

もし他者から見えた特徴があっても、
そこに触れることが相手の成長や問題解決に効果があるかどうかは不明だし、
効果があるとしても、どうアプローチすればよいのかは、
よほど熟練したプロであっても、それなりの試行錯誤を経ないと判明しない。

結構な時間と腕前を要求されるので、ジョハリの窓はアカデミックではあるが
雑学的な扱いになっているのは否めない。

なにより、無理矢理に解明しようとしなくても、本人の学びや成長によって、
「4」はいずれ「2」「3」に浮上し、長所であれば活かし、短所であれば正したり
あるいは隠すことが、意図的にできるようになる可能性がある。

いわば、時間の経過と、偶然に任せるしかないとも言える。
そうやって、隠れたまま本人の人生に陽を差したり、影を落としたりするブラックボックスが
「4」の自他にとって未知の領域だ。

しかし、そんな「4」の部分に対し、偶然にもあなたは少年時代に、アプローチするきっかけを得ていた。
無論その頃は、「ジョハリの窓」などという難しい理屈などは知らない。

TVで興味を持ち、何となく始めた『手相占い』というものが、いつしかあなたの特技になっていた。

“ 書いてあるデータを読み解き、今目の前にいる依頼者に合わせて説明の言葉を組み立てる ”

高校生の頃ではあったが、多読家で、作文が得意だったあなたは、クラスメートを片っ端から鑑定した。
噂が学校内に広まり、朝、あなたの登校を待つ女生徒なども出てくるようになった。

同世代だけでなく、アルバイト先や、面接を受けに行った専門学校の面接官など
大人たちの手相も男女問わず鑑定し、時には鑑定書まで書いて渡したりしていた。

料金を取らないことも手伝って、あっという間に鑑定実績は3ケタに上り、
100人を超えた時点で鑑定人数をかぞえることはやめにした。

そして、場数を踏めば踏むほど、あなたは実感する。

(手のひらの線や丘、指などに関する知識より『目の前の依頼者の状況に合わせたトーク』が 何より重要なのだ)

それに気づいたのは、20代後半にカウンセリングを学んでからだ。
講義をメインにするのではなく、『ノウハウの提供』をメインにして、理屈はサブ的な扱いにするのが効果的だ。

つまり、『手のひらから読み取れる情報をすべて伝え、解釈は相手任せ』にするのではなく、
『あらゆる情報を小さくまとめてしまうが、一度にすべてを見せず、相手の潜在能力や、未来の幸運を匂わせる』
ことが、相手の成長の手助けになるという不可思議さを、いつしかあなたは理解していた。

ただ、オカルト嫌いという特徴を持つあなたは、占いができるということを、あまりオープンにしなかった。
知人の紹介で、数珠つなぎに依頼を受け、好評を受けながらも決してプロになろうとしなかったのは、

「こんなことを生業にするなど、世間に顔向けができない」
という、一種の偏見によるものだ。

一方、データベースを活用して、他人の業務改善をしたり、その相談に乗ることが多かったあなたは、
(《考え方》を教えるより、《手段》を提供したほうが、問題解決に役立つケースが多い)
ということを、ビジネス現場の経験から身にしみてわかっているが、これは占いの時のコツと全く同じものだった。

だからこそ、この、【法人】などという茶番に対し、一見調子を合わせながら、
実際にはあの男自身の運命を存分に占ってやろうと考えたのだ。

ただ、あなたは無論、【法人】などという存在は信じていない。
しかし、この『一見調子を合わせ』というところが重要なポイントだ。

【法人】と名乗った相手に対し、個人向けの占いをしたのでは説得力がない。

線や丘や指や手の形状など、あらゆる要素を【法人】に置き換えて
それぞれの意味を統合した鑑定にすることが必要だ。

あなたが【法人】とハローワークに要求した3日間は、『要素の置き換え』の創造に費やすための時間だった。

占いになぞらえた面談で、あの男自身の性格特性や問題点などを聞き出し、
それに対して的確な分析やアドバイスができれば、相手もあなたの能力を認め、
それによって何か次の展開も開けるだろう。

今回、▲▲社の人間が来ているのなら、思ってもみない形で面接を受けることが出来るのだから、
ここであなたの実力をアピールし、上手くいけば採用される可能性だってあるかもしれない。

そのためには、【法人】に対する占いが、あまり的外れな内容にならないよう、
手相の各要素が個人のものとかけ離れないようなアレンジが必要だ。

一方的にしゃべっては不利になる。
相手から、できるだけ多く会社のデータを引き出し、即席のデータベースを基にした面談に持ち込みたい。

手相をダシにして、定量/定性を問わず、とにかくデータを吐き出させるためのトークのプランはある。
そういうことに関しては、あなたの経験値は高いほうだ。

特に、少年時代から二十歳そこそこのあなたが、
ずっと年上の人間から『大人の悩み』を聞き出すというハンデをクリアするには
確かな技術の裏付けがなければならないが、それをクリアしてきたという点は
少し自信を持っても良いかもしれない。

ただ、これらはあくまでも個人に対してだ。

今回は、個人-法人間の変換という、想像もしなかった条件が加わり、大いに難易度が高い。
(生命線は、【法人】向けならどんな意味合いを持つことになるだろうか?)

3日後に向けたあなたの思考はそこから始まった。